2011-10-01から1ヶ月間の記事一覧
『週刊文春』は、直木賞の決まる季節には受賞者紹介記事を載せるのが定番である。版元が版元だけに、テッパン記事ともいえる。この記事の見どころはいろいろある。 その時代に、受賞発表はどのように行われていたか。 二人受賞者がいる場合、どちらに比重を…
河盛好蔵は、文学賞ファンにとっては心強い文人のひとり。なぜなら、文学賞は数が多ければ多いほどよい、という意見の持ち主だからである。専門がフランス文学だからなのだろう。文学賞大国・フランスの姿を是とする考え方が、その根底にはあるようだ。 『小…
青森の出版社、津軽書房が15周年を迎えた昭和54年/1979年、『年輪』というエッセイ集が出された。同社に関わりの深い人たち28人と、社主・高橋彰一が15年を振り返って原稿を寄せている。平井信作、佐藤善一、長部日出雄、左館秀之助と、直木賞候補者(および…
直木賞の発表媒体は文藝春秋の『オール讀物』である。発表号には、受賞のことば、選考委員による選評が載るほか、昭和30年代40年代ごろからは受賞作(全文掲載か、抄録)が掲載されるのが通例となった。また、その他、受賞者にまつわるいくつかの記事が載る…
有馬頼義が第31回(昭和29年/1954年上半期)直木賞を受賞したころのことは、別のブログでも書いた。基本、雑誌社からの注文はなかったと語っている。ただし、受賞した日からしばらく反響があったとも回想している。 『原点』(毎日新聞社刊) 著者 有馬頼義…
浅田晃彦は「乾坤独算民」で第60回(昭和43年/1968年下半期)直木賞候補に挙がった作家。群馬の地で亡くなるまで文学活動を続け、多くの新人を顕彰し後輩たちを育てた。彼が同人として所属し、エッセイ「往時茫々」を連載していた『風雷』では第129号(平成8…
『サンデー毎日』主催の公募小説賞は歴史が長い。その入選作が直木賞候補になることもある。ただ、入選作より低い評価しか与えられなかった選外佳作が、入選作をおさえて直木賞候補に選ばれる例もある。第44回(昭和35年/1960年下半期)の木戸織男「夜は明け…
花村奨(すすむ)は別名・土岐愛作。戦前の直木賞候補作家である。サンデー毎日大衆文芸での佳作から出発し、長谷川伸と土師清二に師事。新鷹会の会員となり、『大衆文藝』の編集長も務めた。没後、山本和夫の手により『行路』という文集が編まれた。 『行路…
いつの時代も、どの国でも、文学賞の結果にはとかく不平の声が挙がるものである。日本でまだ直木賞・芥川賞が生まれる以前のこと。新潮社の『文章倶楽部』はすでに日本の読者に、海外の文学賞の姿をしばしば伝えていた。以下は『文章倶楽部』昭和3年/1928年3…
直木賞を受賞すると、多くの場合、直後に『週刊文春』からお声がかかる。同誌の語りおろし連載「行くカネ来るカネ 私の体を通り過ぎたおカネ」にも、さまざまな直木賞受賞直後作家が登場した。製版会社社長だった森田誠吾も、そのひとり。 『週刊文春』昭和6…
相野田敏之の「山彦」は、第13回(昭和16年/1941年上半期)芥川賞で、多田裕計「長江デルタ」と受賞をあらそった。芥川賞史上、選考会が時局モノに大きく傾いた分岐点、としてよく知られている回でもある。相野田はその後、創作から離れて、教職、地方政治に…
早川書房『ミステリマガジン』の第4代編集長、各務三郎(太田博)。その在任期間(昭和43年/1968年〜昭和48年/1973年)は、直木賞でいうと、第60回台に当たる。推理小説はこの時期も、直木賞から縁遠かった。小森収のインタビューから、各務三郎の直木賞観が…
昭和30年代、3度の直木賞候補に選ばれた作家に草川俊がいた。平成2年/1990年から平成3年/1991年にかけて桐原書店から、『草川俊作品集』全10巻を刊行した。私家版だったためか、せっかくの偉業なのに、どの巻も一般的には入手難である。第10巻には第39回候補…