「相野田敏之・略歴」

相野田敏之の「山彦」は、第13回(昭和16年/1941年上半期)芥川賞で、多田裕計「長江デルタ」と受賞をあらそった。

芥川賞史上、選考会が時局モノに大きく傾いた分岐点、としてよく知られている回でもある。

相野田はその後、創作から離れて、教職、地方政治に携わった。

そのかたわら、戦後は俳句の世界に関心を寄せ、没後、遺族の手によって遺句集が刊行されている。

『相野田敏之遺句集 碧浪子』

編集発行 相野田博之、平成7年/1995年4月10日発行
目次

  • 序……石井青歩
  • 句集 碧浪子
  • 雪の伽藍
  • 赤冨士先生と千鳥の碑
  • 千鳥の碑
  • 追悼 碧浪子に寄せる
    • 石井青歩
    • 伊藤孟峰
    • 八木能登呂
    • 石本みち江
    • 熊平肇
    • 福間駿吉
    • 川地洋一
    • 秋山薫
  • 小島政二郎先生からの書簡
  • 碧浪子スナップ
  • 相野田敏之・略歴
  • あとがき

※「相野田敏之・略歴」を全文引用する。もちろん芥川賞候補になったことにも触れられている。

「相野田敏之・略歴

  • 大正六年三月二十三日

 佐伯郡中村 相野田喜平の長男として生まれる。

  • 昭和九年三月

 広島高等師範学校附属中学校卒業。(現広島大学附属高等学校

  • 昭和十六年三月

 慶応義塾大学予科を経て本科を卒業。

  • 昭和十六年四月〜十七年三月

 三田文学に同人として籍をおく。この間昭和十六年上半期に作品「山彦」が芥川賞候補(次席)となる。

  • 昭和十七年四月

 応召により陸軍に入隊。同時に陸軍経理学校に入学。

  • 昭和二十年八月

 四国徳島にて終戦を迎える。

  • 昭和二十三年十月

 坂横浜の児島義雄三女貞子と結婚。翌二十四年長男博之誕生。同年に俳句結社「廻廊」に入会・俳句作りを始める。

  • 昭和二十五年四月〜二十六年二月

 県立大柿高等学校に教諭として勤める。

  • 昭和二十六年四月

 佐伯郡中村村長選挙に出馬し当選する。

  • 昭和三十年四月〜昭和四十二年四月

 中村・鹿川村・高田村三カ村の合併に伴う町長選挙能美町長に選出され、三期十二年の間、町政を担当。

  • 昭和四十五年四月〜四十九年三月

 能美町長の職を辞し、現在の楽々園に住居を移すとともに、広島女子商業高等学校に教諭として勤める。

  • 昭和四十九年四月〜

 教職を辞した後は「廻廊」の同人として俳句作りに専念する。

  • 昭和五十七年十月二十八日寂(没)

 享年六十四歳」