文学賞メッタ斬り!芥川賞・直木賞予想的中率
(※平成27年/2015年1月18日に初期アップロード)
(※平成28年/2016年1月22日に最新情報更新)
大森望・豊崎由美による対談企画「文学賞メッタ斬り!」は、平成15年/2003年に生まれた。
以来、シリーズ5冊が刊行されている。
当初は、現在の日本の文学賞にまつわる話題を、二人が対談し、解説するのが主体で、
とくに、文学賞(とくに直木賞・芥川賞)の受賞を予想するための企画ではなかったが、
1冊目の『文学賞メッタ斬り!』が刊行された直後の、第131回(平成16年/2004年・上半期)のときに、
「エキサイトブックス」内で、直木賞・芥川賞の受賞予想対談を開始。
以降、下記のような媒体の変遷をたどりながら、半期に一度、かならず両賞の予想を発表するようになった。
- 第131回〜第133回 エキサイトブックス
- 第134回〜第136回 nikkei BPnet
- 第137回〜第141回 PARCO CITY
- 第142回〜第152回 ラジカントロプス2.0(ラジオ日本)
- 第153回〜第154回 ラジオ日本(単発番組「文学賞メッタ斬り!スペシャル」)
他に、たとえば『ダ・ヴィンチ』誌上では「新人賞メッタ斬り!」が行われたり、
単発で『村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」メッタ斬り!』が電子書籍で出版されたり、
さまざまなかたちで両者の「メッタ斬り!」は続いているが、
おそらく現在、多くの人が接するのは「芥川賞・直木賞」を予想する企画といっていいだろう。
その予想と対談、結果に対する講評は、各回の時期に応じて以下のように既刊本に収められている。
- 第131回〜第135回 『文学賞メッタ斬り!リターンズ』(平成18年/2006年8月)
- 第136回 『文学賞メッタ斬り!2007年版 受賞作はありません編』(平成19年/2007年5月)
- 第137回〜第138回 『文学賞メッタ斬り!2008年版 たいへんよくできました編』(平成20年/2008年5月)
- 第139回〜第146回 『文学賞メッタ斬り!ファイナル』(平成24年/2012年8月)
しかし、第147回以降は、現状、ラジオで流れた(ポッドキャスト化されている)音源でしか、
確認することはできない。
ラジオでは、たしかに二人の予想は発表されるものの、
「対抗」や「大穴」については言及が省略されることもあるようだ。
そのため完全を期すことはできないが、
二人の予想がこれまでどのくらいの割合で当たってきたのか、以下その的中率をまとめてみた。
「累計的中率」とは、第131回からその回までで受賞作(「受賞なし」は1作と見なす)を当てた作品数の割合のことである。
一般に「予想が当たる」とは、「本命での的中」を指すものと思われるが、
参考までに「対抗での的中」「大穴での的中」も合わせて算出した。
第154回(平成27年/2015年・下半期)が終了した段階では、下記のとおりの的中率となっている。
(なお、今後もひきつづき、直木賞・芥川賞が開催されるたび、この記事は更新する予定である)
文学賞メッタ斬り!芥川賞・直木賞予想的中率
(※平成27年/2015年1月18日に初期アップロード)
(※平成28年/2016年1月22日に最新情報更新)
大森望・豊崎由美による対談企画「文学賞メッタ斬り!」は、平成15年/2003年に生まれた。
以来、シリーズ5冊が刊行されている。
当初は、現在の日本の文学賞にまつわる話題を、二人が対談し、解説するのが主体で、
とくに、文学賞(とくに直木賞・芥川賞)の受賞を予想するための企画ではなかったが、
1冊目の『文学賞メッタ斬り!』が刊行された直後の、第131回(平成16年/2004年・上半期)のときに、
「エキサイトブックス」内で、直木賞・芥川賞の受賞予想対談を開始。
以降、下記のような媒体の変遷をたどりながら、半期に一度、かならず両賞の予想を発表するようになった。
- 第131回〜第133回 エキサイトブックス
- 第134回〜第136回 nikkei BPnet
- 第137回〜第141回 PARCO CITY
- 第142回〜第152回 ラジカントロプス2.0(ラジオ日本)
- 第153回〜第154回 ラジオ日本(単発番組「文学賞メッタ斬り!スペシャル」)
他に、たとえば『ダ・ヴィンチ』誌上では「新人賞メッタ斬り!」が行われたり、
単発で『村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」メッタ斬り!』が電子書籍で出版されたり、
さまざまなかたちで両者の「メッタ斬り!」は続いているが、
おそらく現在、多くの人が接するのは「芥川賞・直木賞」を予想する企画といっていいだろう。
その予想と対談、結果に対する講評は、各回の時期に応じて以下のように既刊本に収められている。
- 第131回〜第135回 『文学賞メッタ斬り!リターンズ』(平成18年/2006年8月)
- 第136回 『文学賞メッタ斬り!2007年版 受賞作はありません編』(平成19年/2007年5月)
- 第137回〜第138回 『文学賞メッタ斬り!2008年版 たいへんよくできました編』(平成20年/2008年5月)
- 第139回〜第146回 『文学賞メッタ斬り!ファイナル』(平成24年/2012年8月)
しかし、第147回以降は、現状、ラジオで流れた(ポッドキャスト化されている)音源でしか、
確認することはできない。
ラジオでは、たしかに二人の予想は発表されるものの、
「対抗」や「大穴」については言及が省略されることもあるようだ。
そのため完全を期すことはできないが、
二人の予想がこれまでどのくらいの割合で当たってきたのか、以下その的中率をまとめてみた。
「累計的中率」とは、第131回からその回までで受賞作(「受賞なし」は1作と見なす)を当てた作品数の割合のことである。
一般に「予想が当たる」とは、「本命での的中」を指すものと思われるが、
参考までに「対抗での的中」「大穴での的中」も合わせて算出した。
第154回(平成27年/2015年・下半期)が終了した段階では、下記のとおりの的中率となっている。
(なお、今後もひきつづき、直木賞・芥川賞が開催されるたび、この記事は更新する予定である)
『オール讀物』の矢野八朗(村島健一)による「作家との一時間」一覧
昭和36年/1961年10月号から3年強、『オール讀物』に毎号にわたって載ったインタビュー記事「作家との一時間」は、同誌の名物企画だった。文藝春秋の社史ですら触れられている。
インタビュアーは矢野八朗。フリーライター村島健一の筆名である。
その記念すべき第一回は、水上勉が直木賞を受賞した第45回(昭和36年/1961年・上半期)発表号。以後、第50回(昭和38年/1963年・上半期)までの受賞者は全員、発表号において矢野のインタビューを受けた。直木賞と結びつきの深い企画だった。
以下、その一覧をまとめる。このインタビューは、主に新作長篇(といっても100枚前後)を寄せた作家に対して行われたもののため、その発表作品と合わせて紹介する。
ちなみに、この企画を採用しはじめたのは、樫原雅春・編集長のときからである。
昭和36年/1961年
- 10月号 水上勉(第45回直木賞受賞者)「棺の花」(受賞第一作)+「水上勉との一時間」
- 11月号 鮎川哲也「死のある風景」+「鮎川哲也との一時間」
- 12月号 黒岩重吾「煮えた欲情」+「黒岩重吾との一時間」
昭和37年/1962年
- 1月号 柴田錬三郎「猿飛佐助 柴錬「立川文庫」第一話」+「柴田錬三郎との一時間」
- 2月号 円地文子「団地夫人」+「円地文子との一時間」
- 3月号 松本清張「眼の気流」+「松本清張との一時間」
- 4月号 伊藤桂一(第46回直木賞受賞者)「水の琴」(受賞第一作)+「伊藤桂一との一時間」
- 5月号 檀一雄「恋と吹雪と砲弾」+「檀一雄との一時間」
- 6月号 源氏鶏太「悲喜交々」連載第一回+「源氏鶏太との一時間」
- 7月号 五味康祐「一刀斎自殺す」+「五味康祐との一時間」
- 8月号 新田次郎「疲労凍死」+「新田次郎との一時間」
- 9月号 南條範夫「無惨や二郎信康」+「南條範夫との一時間」
- 10月号 杉森久英(第47回直木賞受賞者)「早稲田の虎」(受賞第一作)+「杉森久英との一時間」
- 11月号 曾野綾子「佳人薄命」+「曾野綾子との一時間」
- 12月号 笹沢左保「雲の葬列」+「笹沢左保との一時間」
昭和38年/1963年
- 1月号 石原慎太郎「傷のある羽根」+「石原慎太郎との一時間」
- 2月号 井上靖「明妃曲」+「井上靖との一時間」
- 3月号 結城昌治「噂の女」+「結城昌治との一時間」
- 4月号 山口瞳(第48回直木賞受賞者)「伝法水滸伝」(受賞第一作)+「新受賞作家との一時間 山口瞳の巻」
- 同上 杉本苑子(第48回直木賞受賞者)「二条ノ后」(受賞第一作)+「新受賞作家との一時間 杉本苑子の巻」
- 5月号 山岡荘八「八弥の忠義」+「山岡荘八との一時間」
- 6月号 丹羽文雄「女医」+「丹羽文雄との一時間」
- 7月号 藤原審爾「黄金の女」+「藤原審爾との一時間」
- 8月号 尾崎士郎「後藤又兵衛」+「尾崎士郎との一時間」
- 9月号 飯沢匡「臭い金」+「飯沢匡との一時間」
- 10月号 佐藤得二(第49回直木賞受賞者)「女のいくさ」(受賞作の一部)+「佐藤得二との一時間」
- 11月号 梶山季之「冷酷な報酬」+「梶山季之との一時間」
- 12月号 有馬頼義「小説靖国神社」+「有馬頼義との一時間」
昭和39年/1964年
- 1月号 今東光「北斎秘画」+「今東光との一時間」
- 2月号 司馬遼太郎「慶応長崎事件」+「司馬遼太郎との一時間」
- 3月号 瀬戸内晴美「うぐいす塚」+「瀬戸内晴美との一時間」
- 4月号 安藤鶴夫(第50回直木賞受賞者)「巷談本牧亭」(受賞作の一部)+「新受賞作家との一時間 安藤鶴夫の巻」
- 同上 和田芳恵(第50回直木賞受賞者)「道祖神幕」(受賞作の一篇)+「新受賞作家との一時間 和田芳恵の巻」
- 5月号 村上元三「落椿抄」+「村上元三との一時間」
- 6月号 藤沢桓夫「そして跳んだ――小説・南部忠平伝――」+「藤沢桓夫との一時間」
- 7月号 山田風太郎「さざなみ忍法帖」+「山田風太郎との一時間」
- 8月号 高木彬光「黒い波紋」+「高木彬光との一時間」
- 9月号 富田常雄「黒帯綺談」+「富田常雄との一時間」
- 10月号 (第51回直木賞 該当者なし)
- 10月号 城山三郎「ある倒産」+「城山三郎との一時間」
- 11月号 戸川昌子「緋の堕胎」+「戸川昌子との一時間」
- 12月号 海音寺潮五郎「餓鬼道城」+「海音寺潮五郎との一時間」
「世界文学賞物語」(『文藝通信』昭和10年/1935年2月号)
以前、文藝春秋社の『文藝通信』を取り上げたことがある。
『文藝通信』(文藝春秋社発行) - 直木賞のすべて 資料の屑籠
そのなかで昭和10年/1935年2月号の記事「世界文学賞物語」(無署名記事)を紹介した。
ここではその全文を掲載しておく。
直木賞・芥川賞ができた当時(まだ第1回の結果発表前)、日本でノーベル文学賞やゴンクール賞が、どのように見られていたか、一例を示すものとも言える。
『文藝通信』昭和10年/1935年2月号(第三巻第二号)
定価十五銭、発行兼印刷兼編集人 菊池武憲、発行所 株式会社文藝春秋社、昭和10年/1935年2月1日発行
「世界文學賞物語
日本にもいよいよ文學賞の制度ができた。「芥川賞」「直木賞」がそれである。然しながら、我が國民として今更あんまり大きい聲でいへた筋合のもんぢやない。何故かといふと、一體全體世界の文明國で文學賞のなかつた國といふものは、何と、今の今まで我がニツポンだけだつたのだ。なにせ、それらしきものすら殆どなかつたのだから、チヨツとばかり冷汗ものである。
が、それにしても目出度い事には違いないのだ……。△
では、アチラには一體どんな文學賞があるか?
これがまた大變。ある暇人が暇にあかせて調べた處に據ると、歐羅巴でちよいと目ぼしい賞を拾つても二百や三百は轉がつてゐるといふから、何とキマリが惡いではないか。
ゴンクール賞、ゲーテ賞、フローレンス賞、なんどは中でも有名なもの。然し、何といつたつてピカ一は例のノーベル賞だ。此のノーベル賞の起りといふのが、また色々と面白いのだが、冗々書いてた日には頁をうんと食つちまふ故、後日に讓る。ただごく簡單に云ふと、一八九六年に死んだアルフレツド・ベルンハルト・ノーベルといふ孤獨な瑞典人の遺志によつて、ノーベル賞なる制度が具體化したので、賞金は大枚四萬弗。
藝術に國境なし、といふわけで、もちろん國籍は論じないのだ。ストツクホルム學界が之の審査詮衡に當る。
で之を頂戴する人はといへばやはり大家が多い。つまり功成り名遂げた老大家、或は中老大家をねぎらふ意味の賞金に結果的にはなつてゐる。此の意味で、新人を掘出し援助して行くのを主旨とする我が芥川・直木賞とは自ら趣を異にしてゐる。
最初の授賞は一九〇一年に行はれ、爾後、昨年黒シヤツの國伊太利の劇作家兼小説家のルイヂ・ピランデルロに至るまで優に三十四名の授賞者がゐる。(殘念ながら日本の作家はむろん此の恩典に與らなかつた)
此の中には、フランスのロマン・ローラン、アナトール・フランス、ベルギーのマーテルリンク。ドイツのハープトマン、パウル・ハイゼ、トーマス・マン、英吉利のバーナード・シヨウ、ゴールスワージ、キツプリング、愛蘭のイエーツ等の大家の名が見られるし、地元のスカンヂナビヤでは、瑞典の女流作家セルマ・ラゲレフ、ビイエルンソン、諾威の、クヌード・ハムズン、ジーグリツド・ウンドセツト等の名が見出される。
一九三〇年までは、日本同樣アメリカ及ソヴイエートには、ノーベル賞の授賞者がゐなかつた。所がである。一九三〇年に、弗の國アメリカの作家シンクレア・ルイズが此の賞金を貰つた。「本町通り」(ルビ:メーン・ストリート)や「バビスト」の作者として有名なルイズは、又「アメリカの悲劇」の作家ドライザーと仲の惡いのでも有名である。更に一九三三年には、ソヴイエートのイワ゛ン・ブーニンが授與された。此の人は然しプロレタリア作家ではなく、代表作「桑港から來た紳士」に見られる如く亡命者(ルビ:エミグレ)である。
とにかく、此の二人で日本より一足先にアメリカとソヴイエートがノーベル賞を貰つちまつた。さて、日本では誰か、といふ事になるとよく候補者は擧げられるが、國語の關係上當分悲觀すべき状態にある。けれども、仏蘭西の哲學者ベルグソンが一九二八年には、諾威の女流作家ウンドセツトとともに授賞してゐるのだから、京都の西田幾太郎(ママ)博士あたりに早晩お鉢が廻つて來ない事もあるまい。「芥川賞」「直木賞」と一味相通ずるものにフランスのゴンクール賞がある。
アカデミー・ゴンクールといふのがちやんとあつて、その會員達が年々傑作を選ぶのだ。ゴンクールとは勿論十九世紀の有名な兄弟の文學者で、ゴンクール兄弟は評論家として又劇、小説家として合作の權威ある著作を遺してゐる。その兄弟の遺志による表彰で、賞金は五千フラン。昨年には、我が「行動主義」の連中が頻りに押戴いてゐるアンドレ・マルロオの「征服者」が授賞した。近く小松清氏の譯で發行されると聞く。一昨年、乃ち一九三三年に貰つたのは、ギイ・マヅリーヌとレイモンド・ド・リアンジの兩名。
愚劣な映畫だつたが、婦人公論が力瘤を入れたためにパツと有名になつた「母の手」の原作はレオン・フラピエといふ人の「保育園」で、たしか一九〇三年か四年かの、ゴンクール賞獲得の小説である。
此のゴンクール賞は新人の傑作發見に資する處甚だ大であつて、その點ノーベル賞とはダンチに解放的で、所謂アカデミツクな匂のしないのがウレシイ。ゲーテ賞其他
ゲーテ賞といふのがある。之は賞金制ではなく賞牌(ルビ:メダル)をくれるだけだが、相當に良心的な處があり、授賞者中には、一九三三年のアンドレ・ジイド、ポール・ヴアレリイ等の名も見られ必ずしも自國贔屓ではない。
此の外、フエミナ賞、フローレンス賞等も權威があるが、紙數も盡きて來たから、これくらゐに止めておく。」
長沢巌『おおぞらに向かって』に描かれた日吉早苗
第23回(昭和25年/1950年下半期)の候補者、日吉早苗は、それからわずか2年ほど後、亡くなった。
日吉といえば、まず何より親友の山本周五郎、あるいは教え子だった小沼丹による回想文でも知られる。
日吉の息子、長沢巌は長じて牧師となり、また障碍者施設「やまばと学園」の運営に尽力した。彼の著書にも、父・日吉早苗に触れた箇所がある。
『おおぞらに向かって――重い知恵遅れの子らとともに』
著者 長沢巌、発行所 日本基督教団出版局、昭和48年/1973年10月25日初版発行
目次
- 序
- やまばと学園への道
- やまばと学園の目ざすもの
- 人間の価値を何で決めるか
- はばたき
- やまばとの天使たち
- 施設民主主義を目ざして
- ともに生きる
- 「やまばと成人寮」のために
- たとえ遅い歩みであっても
- 社会福祉事業の厳しさ
- 「コロニー」への疑問
- 生かされる喜び
- あとがき
- 年表
- 資料
- カバーデザイン……明石健
- 写真撮影……大井淳地
日吉に関する記述は、最初の章に出てくる。
「はじめに私事で恐縮ですが、さきごろ本箱の整理をしていましたら、日吉早苗著『お父ちゃん』という本が出て来ました。じつは日吉早苗というのはわたしの父のペンネームで、父は今から三十年くらい前の少女雑誌などにこの名前で小説を書いていたのです。そして「お父ちゃん」のモデルは父自身ということになるのですが、今度パラパラとページをめくってみて、その中にわたしが少年時代にノートに書きつけた詩が、そのまま載せられているのを見つけました。それはわたしが家族とともに伊豆の大島にある精薄児施設の藤倉学園を訪問した時の印象を詩の形にしたものです。
(引用者中略)
この詩には何も触れられていませんが、藤倉学園をわたしたち一家が訪問したのは、わたしの姉をそこに入園させるためでした。この姉は満十八歳の年齢に達して退園し、現在もわたしたちといっしょにいます。父は早くなくなりましたが、最後まで姉のことが重荷であったようです。」
障碍をもって生まれた日吉の娘、あるいは熱心な、熱心すぎるほどのキリスト教徒だった日吉の妻のことは、木村久邇典の『山本周五郎』などにも登場する。
河内仙介「時計と賞金」(『別冊文藝春秋』30号昭和27年/1952年10月)
直木賞(と芥川賞)の受賞者は、しばしば、受賞時の回想や賞金の使い道などを、書かされてきた。「直木賞○周年記念」と銘打たれた文藝春秋の雑誌では、よく、その記事を見かける。
『別冊文藝春秋』昭和27年/1952年10月発行の号は、30号記念号で、直木賞・芥川賞一色だった。
『別冊文藝春秋』30号(昭和27年/1952年10月)
特価百円、昭和27年/1952年10月20日印刷、昭和27年/1952年10月25日発行、編集人 田川博一、発行人 池島信平、発行所 文藝春秋新社
目次
- 表紙……ブラック
- 目次カット……脇田和
- 芥川賞作家選
- 芥川・直木賞の歴史
- 時計と賞金……石川達三・鶴田知也・小田嶽夫・富澤有為男・尾崎一雄・石川淳・火野葦平・半田義之・寒川光太郎・櫻田常久・多田裕計・芝木好子・倉光俊夫・東野辺薫・八木義徳・小尾十三・清水基吉・由起しげ子・小谷剛・井上靖・辻亮一・石川利光・安部公房・川口松太郎・海音寺潮五郎・木々高太郎・橘外男・大池唯雄・堤千代・河内仙介・村上元三・木村荘十・田岡典夫・森荘已池・富田常雄・今日出海・小山いと子・源氏鶏太・久生十蘭・柴田錬三郎
- 直木賞作家選
- 芥川賞の作家たち……瀧井孝作
- 銓衡委員の感想……宇野浩二
- 直木賞下ばたら記……永井龍男
- 秋の羽織……舟橋聖一
- 百万人の文学の秘密……浦松佐美太郎
- 吉川英治アルバム……林忠彦
- カット……岡鹿之助・脇田和・麻生三郎・古茂田守介・桂ユキ子・川端實
なかで、今回は河内仙介の「時計と賞金」を引用する。
河内はまもなく昭和29年/1954年2月に亡くなるが、その後は「悲惨な直木賞作家」として語られることが多くなる。
そのときに出てくる話が「生活が苦しくて、直木賞の正賞である時計を質屋にもっていったら、裏に名前が彫ってあったため渋られた」「賞金は酒で飲みつぶしてしまった」など。
これを河内自身は、どう書いているか。
「一、記念品の時計は、十二年前の受賞当時と同じように、現在も小生の手許で秒を刻んでおります。が、白状しますと、終戦後のインフレで謂うところのタケノコ生活も底をつき背に腹はかえられず、とうとう涙を呑んで質屋へ典物として、千円ばかり借りたことがありました。ところが、戦前なら、流期は六ヶ月で、その時には通知してよこしたものですが、戦後は三ヶ月で通知をよこすような人情味もなくなっていましたので、うっかりしているうちに、期限も過ぎてしまったのです。青くなって金策をして質屋に駈けつけましたところ、「これが無疵のものでしたら、早速に処分していたのですが、何分にも、裏にゴタゴタ字が彫ってあるので、売れ残ったのです」
それで流失の難をまぬがれたという質屋の番頭の言葉に、ほっと、胸を撫でおろしたこともありました。いや、まったく貧乏はしたくないものです。
それ以来、どうも時間が少し狂うようですが、それにしても小生にとっては貴重な裏側の彫刻の文字も、質屋では疵物扱いにされたのですから、今更のように世はさまざまの感を深くしたような次第でした。
二、賞金は五百円でしたが、当時の金ですから、ずいぶん使い量がありました。いまでも、はっきりおぼえていますのは、十五ヶ月たまっていた家賃(一ヶ月十五円)をきれいに支払った時家主のおやじが手の裏を返したように、「あなたはどこか見込みのある方だと思っていましたので、あまりきつい催促もしないでおったのですが……」
と、見え透いたお世辞をいわれたことでした。残った金で、久しぶりに展墓のため大阪へ帰ったりしました。」
没後おおやけにされた噂話とは、ずいぶん様相が違うことだ。
「「時の人」斎藤芳樹とは?」(『文明』創刊号昭和25年/1950年8月)
第57回(昭和42年/1967年上半期)直木賞候補、『近代説話』同人、そして第2回夏目漱石賞入選者、斎藤芳樹は、奄美の人である。
その作品世界の多くも、奄美の地に取材したものだった。
夏目漱石賞の入選が、名瀬市の奄美文明社『文明』によって取り上げられている。
『文明』創刊号(昭和25年/1950年8月)
昭和25年/1950年8月10日印刷、昭和25年/1950年8月15日発行、発行兼編集人 藤原岡惠、印刷人 盛岡悦郎、発行所 奄美文明所、特価二十五円
斎藤の筆による「奄美文学を樹立」とともに、「「時の人」斎藤芳樹とは?」という記事が載っている。
以下、「「時の人」〜」全文を引いておく。
「斎藤芳樹氏は旧性中野斎藤、宇検村名柄出身、大島中学校第十四回卒業で、昭和九年上京後は文学を志しつゝ流浪転々の生活をつゞけ、昭和十五年南京の邦字新聞社に入社して各戦線に従軍、二十一年引揚げて東京都北区王子町紅葉橋都営住宅三四号に住い、現在某出版社に勤務のかたわら創作に専念しているが、同氏の文学閲歴は早くも昭和十八年発表した「日語学校」が大陸賞を獲得しており、更に昭和二十四年七月には作品「我利耶は神様」が講談社の群像賞に入選し、今また文学登龍門の夏目賞を得て新進作家としての確固たる土台を築きあげたものである。斎藤氏の作品はいずれも、きょう土奄美大島を主題にして描かれたものであり、その特異な作風と南国的情熱豊かな文学魂の具現は現日本文学界に革新的な一石を投じており、今後の同氏の創作活躍に幾多の期待がかけられているのである。当選の喜びを斎藤氏は左の如く語る。
「雨降る孤島」は昇曙夢先生の御指導と御鞭撻を賜つて完成した作品です。先生に心からの感謝を捧げ、より一層刻苦勉励して立派な作品を書く念願です。
(奄美より)」