『草川俊作品集10中国大陸編』「あとがき」

昭和30年代、3度の直木賞候補に選ばれた作家に草川俊がいた。

平成2年/1990年から平成3年/1991年にかけて桐原書店から、『草川俊作品集』全10巻を刊行した。私家版だったためか、せっかくの偉業なのに、どの巻も一般的には入手難である。

第10巻には第39回候補作「黄色い運河」が収められている。

『草川俊作品集10中国大陸編 黄色い運河』

定価3000円(送料共)、著者 草川俊、発行所 株式会社桐原書店、草川俊作品集刊行会、平成3年/1991年11月15日第一刷発行〔私家版〕
目次

  • 福生のこと
  • 黄色い運河
  • あとがき

※「あとがき」には、昭和33年/1958年11月に『黄色い運河』を光風社から発刊したときのあとがきを引用しつつ、平成3年/1991年当時の文章が書かれている。『下界』11号に発表して直木賞候補になったものは150枚、単行本にするとき350枚に書き直した、とある。
 以下は平成3年/1991年の回想。

「「黄色い運河」は、世間に認められた私のはじめての作品である。「下界」の十一号に発表するまで何年か私は、この作品をひそかに温ためていた。長い時間かけた中篇ではないが、筋立ても執筆の進み具合もスムーズで、私としては、後味のいい作品だった。
 それだけにまた、不安な作品でもあった。この中篇で文壇の片隅にはい上がってみようという、いささかの野望が、心の中にくすぶっていた。「黄色い運河」はどこかに、私の心をこそぐって、不安をかき立てる作品でもあった。当時の私にとって文壇は、近よりがたい文化の域であり、あこがれの的でもあった。私は不安な心を抱きつつ、はやる自分をおさえつけて機会をまった。
 同人会の編集会議のとき、原稿の集まらないことを聞き、おそるおそる一五〇枚の作品があると申し出たところ、すぐその場で、私の作品一つで埋めることがきまり、「下界」十一号の発行となった。事が容易に運んだので、私は呆気に取られたが、怪我の功名という気持ちは黙っていた。
 「黄色い運河」が光風社社長の豊島氏(引用者注:豊島清史)の目にとまったとき、初対面のおり彼は、一五〇枚一篇では、一冊の分量として不足なので、三五〇枚前後の枚数に書き直して欲しいと注文した。出版界の事情にうとい私に、一冊の単行本の分量など見当がつくはずはない。ただ自分の本が、初めて世に出るという喜びに夢中になり、豊島社長の要求に二つ返事で、すぐさま書き直しの作業に入った。
 一五〇枚の作品を倍以上の三五〇枚に書き直したことは、最初のうちこそ気がとがめたが、いつか忘れてしまった。こんど発表当時のままの姿で本にしたが、書き下ろしの新刊を出したという気持ちが強い。」

 光風社の豊島清史(=澂)は豊島与志雄の子供で、『下界』同人の作品をいくつか本にした。うち三作が直木賞の最終候補になっている。草川の『長城線』(候補)、渡辺喜恵子馬淵川』(受賞)、和田芳恵『塵の中』(受賞)である。