昭和45年/1970年における直木賞・芥川賞決定までの流れ
昭和45年/1970年7月1日〜9月13日、東京都近代文学博物館において「直木賞展」が催された。
このときの様子の一部が、第54回(昭和40年/1965年下半期)受賞者、新橋遊吉の所属する同人誌『讃岐文学』にて紹介されている。
そのなかの写真のひとつに、「芥川・直木賞が決定するまで」と題されたパネルを撮影したものがある。撮影者は同人の藤田健二。
パネル上では、当時の両賞決定までのプロセスが図解されている。それを文字のみにて再現してみたい。
『讃岐文学』18号
1970年10月20日印刷、1970年11月5日発行、頒価200円(〒70円)、編集人 永田敏之、発行人 永田敏之、印刷所 讃文社、発行所 讃岐文学社
「グラビア 二つの文学展 直木賞展 壺井栄文学展」よりパネル写真
「芥川・直木賞が決定するまで
同人誌約800点 商業誌約50点 単行本約50点 ――選考対象は、期間中に公表された作品にかぎります。(ナマ原稿は受付けません)同人誌は一点につき四冊送付を原則とします。
↓
日本文学振興会 ――同人誌、商業誌とも平均四点の作品が掲載されていますので選考対象作品数は三千数百点になります。
↓
社外アンケート(300名)
↓ 文藝春秋社内選考委員(二十余名) ――選考対象作品一点は最低三名の委員が目を通します。
↓
文藝春秋社内選考委員会→(延べ12000点)→予選通過作決定 ――社内選考委員会は一期間中に十回は開かれます。社内委員が推薦する作品は、全委員に回覧し委員会にて討議されます。社内委員が推薦する作品は一期につきおよそ100点にのぼります。社外アンケートによる新たな推薦作品についても、社内委員全員が目を通した上で検討されます。
↓
予選通過者に通知 ――通知と同時に、公表用の資料を作成、送付してもらいます。
↓
選考委員に通過作品配布 ――選考委員会までに約一ヶ月の期間があります。
↓
予選通過作品を公表 ――新聞・通信・テレビ・ラジオおよそ五十社に通知されます。
↓
選考委員会 ――昔は数日にわたることもありましたが、現在はおよそ三時間ほどの討議で決定します。
↓
受賞者に通知 ――他の予選通過者にも通知します。
↓
受賞作及び選考経過発表 ――選考委員の代表が発表します。
↓
受賞者記者会見 ――受賞者が遠隔地の場合には行なわれません。
↓
受賞作品掲載 ――芥川賞の場合「文藝春秋」九月号(上期)三月号(下期) 直木賞の場合「オール讀物」十月号(上期)四月号(下期)
↓
贈呈式および懇親パーティ ――正賞(時計)と副賞(二十万円)が四百名ほどの招待客の前で贈呈されます。■期間は上期(十二月一日〜五月三十一日)下期(六月一日〜十一月三十日)の年間二期です」
細かなところで変更された部分はあるが、おおまかな流れは今も変わっていない。
当時との違いで最も印象的なのは、最初の「選考対象作品」の部分。それぞれの内訳の比率もさることながら、各作品数を実数で紹介していて気持ちがいい。
今でも毎回、商業誌何点、単行本何点と公表すればいいのに、と思う次第。
「ご家庭参上 きちょうめんな主婦 直木賞の渡辺喜恵子さん」(『毎日グラフ』昭和34年/1959年9月27日号)
第41回受賞の渡辺喜恵子は、夫である商業写真家の木下利秀と二人暮らしだった。
特徴といっては「主婦作家」ということだったためか、当時の雑誌には、「主婦であること」にフォーカスされた記事がいくつも残されている。
そのうちのひとつが『毎日グラフ』に載った、見開き2ページの写真記事。
『毎日グラフ』昭和34年/1959年9月27日号
目次
- 表紙 戸畑溶鉱炉の火入れ
- “分れ道”でとまどう
- 月旅行を約束する
- 嵐の中の日教組
- 女の“秋場所”
- お遍路さんこんにちわ(北から南へ)
- 近代化された難所(〃)
- 荒涼たる襟裳岬(15年目の日本)
- 死神に見放される人(人間模様)
- モダン哲学「スポーツについて」秋田実
- 4、5才まで使える(新しい暮し)
- 渡辺喜恵子(ご家庭参上)
- 国際短編映画祭の出品作(映画)
- 女は占領されない(テレビ)
- 軽井沢の新歳時記
- 閑人帖
とにかく、記事の端々で「主婦であること」が無理やり強調されている。
たとえば、本文。
「机の上には書きかけの原稿用紙がきちんと置かれ、たなの上にも、古風なたんすの上にも、まっすぐに物が積んである。廊下はきれいに磨かれて、きれい好きで、きちょうめんらしいこの家の主婦の性格を、物語っている。」
写真キャプションも次のごとし。
「ちょっとした仕ぐさ 気の配り方にも 家庭の主婦にしか見られない 細かさがある 才女などといって悪いような 柔軟さと温かさがある人だ」
「ご主人には まめに仕える奥さんである 「馬渕川」のきめの細かい作風の根源は こんなところにあるのかもしれない」
安岡章太郎『歴史への感情旅行』所収「意欲の人」
芥川賞委員が、受賞作の選出に異をとなえて辞任する。という事件が話題らしいので、永井龍男を紹介してみたい。
永井はまず第75回(昭和51年/1976年上半期)に村上龍「限りなく透明に近いブルー」への授賞を受けて、主催の日本文学振興会に辞任を申し出た。
芥川賞が事前からジャーナリズムの喧騒に巻き込まれる風潮に、これ以上、関わりたくない、といった理由が伝えられている。
しかし、そのときは慰留された。一年後の第77回(昭和52年/1977年上半期)。そのときにもまして池田満寿夫「エーゲ海に捧ぐ」の芥川賞候補入りが、過熱した報道のもとにさらされるにいたって、選考会後にあらためて辞意を表明。この回かぎりで委員をおりた。
その永井の選考態度を、同時期に委員を務めていた安岡章太郎が回想している。
『歴史への感情旅行』
著者 安岡章太郎、発行所 株式会社新潮社、発行日 平成7年/1995年11月30日
「意欲の人」(初出『文學界』平成2年/1990年12月号)
「もう二た昔近くも前になるが、私は芥川賞の選考会で永井龍男氏の右隣に坐らせられることになった。向い側の席には池島信平、その隣に吉行淳之介、またその隣が大岡昇平といった具合で、大岡、永井の両氏がちょうど真正面から向き合うかたちになっていた。ところが当時、この両氏は意見が合わず、しばしば作品の評価もくいちがう。そうなると両者、声を震わせての激論になるのだが、そんな際に永井氏の体内からは意欲が、一種の電気か磁力になって発散されるらしく、それが隣席の私の左の肩から腕へかけてビリビリと伝わって、最後には左半身がしびれたようになってしまった。」
さすが、若い日、編集者だった頃から作家たちに恐れられていただけのことはある。
ちなみに、このあと池島信平のボヤき(?)が続く。
「会がおわって、他の席に移るとき、池島氏から、「どうだね、委員の感想は」と訊かれたので、私は永井氏の電磁波の影響をうけたことを述べると、とたんに池島氏は、
「そうだろう」と感に堪えた声になり、「君なんかせいぜい二、三時間、隣に坐っただけで、半身しびれるというが、おれは満州文藝春秋で、その永井さんの下に二年間つかえたんだぜ、察してもくれよ……」
と、大きな声で笑った。」
永井は戦前の芥川賞選考会を肌で知っていた。戦後、変貌を遂げた同賞をとりまく環境には、とうてい付いていけなかったのかもしれない。
『松柏』掲載 塩野周策「父の長襦袢」「年の瀬」
『松柏』は昭和52年/1977年に創刊された同人誌。主宰は大浜東窓(大濱侃)で、主に中高年を同人とする、小説・随筆誌である。
同人のなかには、大月常靖など、過去に雑誌編集者だった人物も含まれていて、大衆読物誌周辺のエピソードもチラチラ書かれている。大衆文芸研究者にとっても大変興味ぶかい同人誌だと思う。
第11回(昭和15年/1940年上半期)直木賞を受賞した河内仙介の息子、塩野周策も、同誌にひんぱんにエッセイを寄せていた。初登場は第83号(平成3年/1991年9月)。定年退職後、新潮文庫の社外校正をしながら、家族のこと、社会のこと、自らの生き方のことなどを綴っている。
そのなかで、父親河内仙介(本名・塩野房次郎)についてもふんだんに触れている。
『松柏』に掲載された塩野周策エッセイ一覧
- 第83号(平成3年/1991年9月)「紅生姜の天ぷら」
- 第84号(平成3年/1991年11月)「名付親になれずの記」
- 第85号(平成4年/1992年1月)「父の長襦袢」
- 第86号(平成4年/1992年3月)「暴酒を少しかげんして」
- 第89号(平成4年/1992年9月)「妻の自転車事故」
- 第90号(平成4年/1992年11月)「煩悩があるから書ける」
- 第91号(平成5年/1993年1月)「カラスの勝手でしょ」
- 第92号(平成5年/1993年3月)「酒場の一齣」
- 第95号(平成5年/1993年9月)「「未曾有の危機」とは…」
- 第98号(平成6年/1994年3月)「原稿用紙と遊ぶ」
- 第99号(平成6年/1994年5月)「年上のかみさん」
- 第103号(平成7年/1995年4月)「鍛冶屋の娘」
- 第107号(平成8年/1996年4月)「年の瀬」
- 第108号(平成8年/1996年7月)「古稀の贈り物」
そのうち、父の思い出を二か所ばかり引用する。まずは「父の長襦袢」より。
「物書きだった父の隆盛期には、滴るような濃紺の色鮮やかな久留米絣や、渋い大島紬を好み、颯爽としてなにくれの会合へ出掛けて行ったが、そんな高価な着物は、敗戦直後の食糧難で、ぼくが新潟の高田在まで持参して米と物々交換してしまった。(引用者中略)
こうして父の晴着は米に化けて、粗末な木綿着と長襦袢に角帯だけが残った。木綿着などは当時の農家の人の普段着だったかして、魅力をそそらなかったらしく、物々交換の対価にはならなかったと記憶している。戦後数年間、何故か父はこれを着用しなかった。その頃の流行語だった“バスに乗り遅れ”て作家復帰が果たせなかった父は、よれよれのコールテンのズボンを穿き、極太毛糸のトックリセーターに、ちゃんちゃんこという判じ物みたいな扮装で座卓に向かい、コツコツと原稿用紙のマス目をうめていた。
やっと業界紙の連載の注文がきて、
「そろそろ芽が出てきよったなあ」
と顔を綻ばせる頃になって、この木綿着を着始めたが、二十八年の秋半ばに胃の変調を訴えるようになった。」
その河内は胃の手術をし、どうにか命をとりとめ、その経験を『朝日新聞』昭和29年/1954年2月10日に「生死の境」と題して発表。再起に向けての意欲を書いたが、その月、胃ガンで亡くなった。
もうひとつは、「年の瀬」から。
「父。仙蕉院釋介心。昭和二十九年二月二十一日没、五十六歳。臨終の前日、「お母ちゃん、ワイは畳の上で死ねるような人間やないねん……よう、こんなええ子二人、手放さずにいてくれたなァ……」と、ぼくと妹の幼児期、二年有年も愛人と爛れた愛欲行の最中、母に離婚を迫った頃のことを謝した。」
「愛人と爛れた愛欲行」とは、河内がいったんは作家になる夢破れて、大阪に帰郷していたあいだのことかと思われる。河内の遊び好きはとくにひどかったらしい。友人の北條秀司も、河内の遊びにつき合わされた話をいくつか書き残している。
『群像』平成10年/1998年9月号「侃侃諤諤」
『群像』の匿名コラム「侃侃諤諤」にとって、文学賞に関するゴタゴタは王道ネタである。
第119回(平成10年/1998年上半期)の直木賞・芥川賞は、話題性十分の回で、他のメディアもこぞって取り上げた。当然「侃侃諤諤」でもこのあたり、笑い飛ばしてくれている。
『群像』平成10年/1998年9月号(第53巻第9号)
編集人 籠島雅雄、発行人 宮田昭宏、発行所 株式会社講談社、平成10年/1998年8月5日印刷、平成10年/1998年9月1日発行
目次
- パルチャ打鈴(タリョン)……深沢夏衣
- 千歳の秋……小原眞紀子
- 幽体離脱へ……佐木隆三
- 武器よ、さらば……小田実
- 心臓が二つある河 その一……久間十義
- 共生虫 第五章……村上龍
- 連載
- 随筆
- MY ATLAS
- '98映画の風景(シネマ・ランドスケープ) ゴジラの国際性……山根貞男
- 楽しみの日々(十七)……大庭みな子
- 私的文学論第9回 ある《地獄下り》再審……菅野昭正
- 対談 戦争と滅亡感覚……秋山駿、野坂昭如
- 短期集中連載 トランスクリティーク――カントとマルクス(一)……柄谷行人
- 状況と参加――新しい世紀にむかう韓国と日本の文学……李恢成
- 『鍵』試論――冷戦構造と文学機械……丸川哲史
- 卑しさというエレメント 転形期の思考5……山城むつみ
- 『戦後的思考(一)』への疑問と回答……李順愛、加藤典洋
- ユーモアとしての命名――吉本隆明『アフリカ的段階について』の着地点……中沢新一
- 連載完結 使徒的人間――カール・バルト(二十一)……富岡幸一郎
- 連載
- 書評
- 創作合評第273回 「猫の目」黒川創、「日蝕」平野啓一郎……岡松和夫、坂上弘、井口時男
- 侃侃諤諤
- 第四十二回群像新人文学賞募集
- 表紙……藤田吉香
- 扉・目次カット……長谷川洋子
- 本文カット……辻晴子・船田正廣
- AD……北本裕章(ピカソ)
※この号の「侃侃諤諤」の語り手は「ピカチュウ」。
「こないだ、サトシが読んでいるシンブンをのぞいて見たら、アクタガワ・ナオキ賞の発表があって、アクタガワに藤沢周サンと花村萬月サン、ナオキに車谷長吉サンがなったってでてた。
サトシに、
「いったい二つの賞はどう違うのでチュか」
ってたずねたら、サトシは、
「ナオキはいわゆる純文学系の人がもらい、アクタガワはいわゆるエンターテイメント系の作家がもらうんだ」
と確信をもっていいました。ピカー。いわゆる電気系ねずみポケモンのボク、おぼえちゃった。」
と、わざとらしい誤認識を披露したあと、「芥川賞」に執着していたはずの車谷長吉が、直木賞受賞を手放しで喜んでいるサマを、こう皮肉っている。
「車谷サンは私小説専門で純文学のパリパリ、こないだもリッパなセンセイ方に、「車谷には伊藤整賞でもヤルか」っていってもらえた作家。でも車谷サンは「私小説作家のことを逃亡ドレイといった伊藤さんの賞なんかボク、イヤダモンネ」といってみんなの目をテンにしたり、「日本文学をダメにしたのは井上靖だ」なんていってのけて、サスガ純文学作家はちがうとカンシンさせたり、ホントに今ドキめずらしく筋をとおすのでも有名。その人が六年かかって書いた作品がナオキになったから「男子の本懐」とカンゲキしたのだし、(引用者後略)」
三浦浩・著『司馬遼太郎とそのヒーロー』所収 福田みどり「「あとがき」にかえて――赤いタバコの無言劇」
司馬遼太郎(本名・福田定一)は産経新聞の文化部で働いていた。隣の席の向かいには、のちに妻となる松見みどりが座っていた。
そして、その司馬の隣の席というのが、誰あろう、のちの直木賞候補作家、三浦浩だった。
三浦は司馬に関する著書を幾冊か編著、または著している。その最後となった『司馬遼太郎とそのヒーロー』は、三浦が没した平成10年/1998年3月より後に刊行された。司馬の妻、福田みどりが「「あとがき」にかえて」を寄せている。
『司馬遼太郎とそのヒーロー』
著者 三浦浩、発行所 有限会社大村書店、平成10年/1998年8月・初版第一刷発行
目次
- I・司馬遼太郎とそのヒーロー
- II・司馬遼太郎と私
- III・三人の作家を惜しんで――池波正太郎 司馬遼太郎 藤沢周平――
- 藤沢さんの「癒し」(上)(下)
- 独学について(上)(下)
- 司馬さんの「知恵」
- 周五郎の存在
- 報酬とチップ
- 悪について
- テレビドラマ
- 故人たちへの感謝
- 「あとがき」にかえて――赤いタバコの無言劇……福田みどり
※三浦浩がはじめて直木賞候補になったのは第76回(昭和51年/1976年下半期)。候補作は『さらば静かなる時』である。福田みどりはこう回想する。
「私は、三浦さんの小説を、もっと読みたかった。司馬さんも私も、その小説を一冊残らず読んだ。たしか四回にわたって直木賞候補にあげられているが、最初の『さらば静かなる時』の選考委員会の夜、連絡を待ちながら、私は生まれて初めてお酒に酔った。酩酊の感覚を知ったのは、この夜が最初である。
残念ながら、どの作品も受賞をのがしたが、私は、どの作品にも、どうしようもない魅力を感じた。あのけむったような陰影と、あのちょっと表現し難い独特の香気はsexyとさえ言ってよいだろう。とにかく面白かった。小説の醍醐味を存分に味うことができた。それが、もう読めないのかと思うと、あらためて、悲しみがこみあげてくる。」
ちなみにその回、司馬遼太郎は選考委員会に出席している。ぞくぞくする光景である。
原尞著作目録
現存の直木賞受賞作家のなかで、著作目録をつくるのが容易な作家、といえば原尞だろう。
なにしろ「死ぬまでに書く小説の数はそらで題名を全部言えるくらいにしておきたい」と公約しているぐらいの方である。今後も著作が一気に増える心配はないにちがいない。
ただ、さすがにwikipediaに載っているリストでは寂しすぎる。不完全であることを承知のうえで、もう少しだけ詳しく著作目録をまとめておく。
『そして夜は甦る』
- 昭和63年/1988年4月・早川書房刊(書き下ろし)
- 〔文庫化〕平成7年/1995年4月・早川書房/ハヤカワ文庫JA
- 「マーロウという男」〔文庫版のみ〕(昭和63年/1988年9月15日・早川書房刊『レイモンド・チャンドラー読本』より改訂収録)
『私が殺した少女』
『天使たちの探偵』
- 平成2年/1990年4月・早川書房刊
- 〔文庫化〕平成9年/1997年3月・早川書房/ハヤカワ文庫JA
『ミステリオーソ――映画とジャズと小説と』
以下単行本は[単]、文庫版『ミステリオーソ』は[ミ]、同『ハードボイルド』は[ハ]と略す
- 平成7年/1995年6月・早川書房刊
- 〔文庫化・分冊〕『ミステリオーソ――エッセイ・対談』平成17年/2005年4月・早川書房/ハヤカワ文庫JA
- 〔文庫化・分冊〕『ハードボイルド――エッセイ・対談・短篇』平成17年/2005年4月・早川書房/ハヤカワ文庫JA
- はじめに〔[単]のみ→[ミ]と[ハ]にはそれぞれ別原稿の無題の文が目次の前につく〕
- 飛ばない紙ヒコーキ(『西日本新聞』平成2年/1990年7月28日〜9月23日〈火〜日曜日〉連載)〔[単]→[ミ]〕
- 紆余曲折
- 西鉄か読売か
- 未知の世界へ
- 忘れている読書
- 時代劇中毒
- 家出未遂
- 中学時代の長靴
- ジャズ・ブーム
- 想像力の死
- 電話の効用
- 学校をサボって観た映画
- 親のいらだち
- ピアノに転向する
- 敬称略
- あるコンテスト
- 絵心なし
- 研究室周辺
- ジャズの誘惑
- バンドマン志願
- コルトレーンの死
- 雨の中の弁論
- 六十日のサラリーマン
- レコード作りへの未練
- 大江健三郎氏との電話
- ジャズ・ピアノの日々
- 映画を創る人たち(書き下ろし)
- 文庫本に救われる
- 彷徨えるニュー・ジャズ
- ピアノ泥棒
- フィルム・ノワール
- わがピアノを労う
- ニュー・ジャズ・シンジケート
- 〈黒澤プロ〉の看板
- 助監督は人にあらず
- 自主製作レコード
- 日本語字幕
- シナリオ修業
- ウサギは野を駆ける
- 言い出しかねて
- 趣味の変化
- ミステリ再読
- 十年間の無駄
- 待機のとき
- 私が殺した少女
- 大竹九段に会う(書き下ろし)
- 受賞のことば
- レイモンド・チャンドラー
- 飛ばない紙ヒコーキ
- 観た 聴いた 読んだ(『佐賀新聞』平成2年/1990年7月23日〜平成3年/1991年1月14日〈毎週日曜日〉連載)〔[単]→[ミ]〕
- ラウンド・アバウト・ミッドナイト
- 太陽がいっぱい
- 用心棒 椿三十郎
- アート・ブレイキイとジャズ・メッセンジャーズ〔[ミ]では「アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズ」〕
- 死刑台のエレベーター
- デューク・エリントン・オーケストラ
- 阿修羅
- ジョン・コルトレーン・クィンテット
- サムライ
- 悪霊
- ブリリアント・コーナーズ モンクス・ミュージック
- モオツァルト
- 生きる 七人の侍
- アメイジング・バド・パウエル
- 第五期囲碁〈名人戦〉七番勝負
- ポピュラー・デューク・エリントン
- 人間喜劇
- カサブランカ
- シーン・チェンジズ
- 山本周五郎『短篇』
- メグレ警視シリーズ
- 狼は天使の匂い
- アイネ・クライネ・ナハトムジーク レクイエム
- 長いお別れ
- 終わりに(「連載を終えて」を改題)
- トレンチ・コートの男たち〔[単]→[ミ]〕
- ハンフリー・ボガートの魅力(『ザ・ビッグマン』平成3年/1991年1月号「ハッピー・エンドの似合わない男」を改題)
- ジャン・ギャバンの魅力(『読売新聞』平成6年/1994年1月19日)
- 『父よ』を観る(フランス映画『父よ』パンフレット 平成14年/2002年6月29日)〔[ミ]のみ〕
- 作家たちについて〔[単]→[ハ]〕
- “マクシム少佐シリーズ”の魅力(平成5年/1993年6月15日・早川書房/ハヤカワ文庫 ギャビン・ライアル・著『影の護衛』)
- 『暗い落日』のこと(平成3年/1991年1月15日・講談社/講談社文庫 結城昌治・著『暗い落日』)
- ハードボイルド雑感(平成2年/1990年5月15日・早川書房刊 ロバート・B・パーカー補作『プードル・スプリングス物語』)
- ドストエフスキイとの接触(平成2年/1990年5月23日・集英社刊『世界の文学』月報 ドストエフスキイ『罪と罰』)
- ジョー・リープホーン警部補との再会(平成7年/1995年7月31日・早川書房/ハヤカワ文庫 トニイ・ヒラーマン・著『死者の舞踏場』)〔[ハ]のみ〕
- 親愛なるリューイン(平成8年/1996年8月31日・早川書房/ハヤカワ文庫 マイケル・Z・リューイン・著『季節の終り』)〔[ハ]のみ〕
- 四つの名前をもっている三つの物語(平成15年/2003年7月15日・早川書房刊 デイヴィッド・グーディス・著『狼は天使の匂い』)〔[ハ]のみ〕
- ウールリッチと私(平成14年/2002年9月30日・白亜書房刊『コーネル・ウールリッチ傑作短篇集1/砂糖とダイヤモンド』)〔[ハ]のみ〕
- あの日のロス・トーマス(平成11年/1999年5月31日・早川書房/ハヤカワ文庫 ロス・トーマス・著『五百万ドルの迷宮』)〔[ハ]のみ〕
- ロス・トーマスの魅力(『ミステリマガジン』平成8年/1996年12月号)〔[ハ]のみ〕
- 生粋の小説家シムノン(平成12年/2000年5月2日・河出書房新社/河出文庫 ジョルジュ・シムノン・著『モンマルトルのメグレ』)〔[ハ]のみ〕
- ジャズについての四つの断章〔[単]→[ミ]「ジャズについての六つの断章」〕
- 視点(『毎日新聞』平成3年/1991年1月9日〜3月27日〈毎週水曜日〉連載)〔[単]→[ミ]〕
- 読者としての眼
- 木造三階の家
- 美しさの基準
- 歳暮にくばる音楽
- 観たいフランス映画
- 日記の効用
- ジャズの受容
- タバコ遍歴
- 見識のない作家
- 祭りの装束
- 子供の躾け
- 政治嫌いの選挙(『小説non』平成6年/1994年4月号「至芸の最下位当選」を改題)
- 老化する視点
- 小説を書くということ〔[単]→[ハ]〕
- 読者として 作家として(平成5年/1993年8月31日・早川書房刊『ハヤカワ・ミステリ総解説目録1953年―1993年』)
- り・よ・う(『西日本新聞』平成1年/1989年1月6日)
- それらしい登場人物(『小説non』平成2年/1990年2月号)
- ひとつの名科白(『ミステリマガジン』平成5年/1993年1月号)
- 受賞以後(『時事通信社』平成2年/1990年4月配信「直木賞以後」を改題)
- 映画化、TVドラマ化のこと(『オール讀物』平成4年/1992年2月号)〔[ハ]では「映画化、テレビドラマ化のこと」〕
- 私の散歩道(『毎日新聞』平成2年/1990年10月4日)
- 考え違い(『宝石』平成4年/1992年12月号)
- 著作と年齢について(『野性時代』平成5年/1993年5月号)
- 想像(『日本経済新聞』平成4年/1992年7月4日〈最初の記憶〉)
- 執筆儀式――儀式としての執筆(『オール讀物』平成6年/1994年2月号)〔[ハ]では「儀式としての執筆」〕
- 第三長篇の周辺(『西日本新聞』平成5年/1993年9月26日)
- あるミスマッチ(『潮』平成6年/1994年5月号)
- 小説そのもの(平成6年/1994年9月『探偵進化論』〈ハヤカワ文庫・ハメット生誕100年ハードボイルド・フェア解説目録〉)
- 小説の題名について(『西日本新聞』平成7年/1995年3月7日・8日)
- 「文庫」の質について(『週刊読書人』平成9年/1997年8月1日)〔[ハ]のみ〕
- イメージの馬(『サラブレッド』平成11年/1999年3月号)〔[ハ]のみ〕
- 「お客様の声」へ(『賑わい』〈佐賀県商工労働部金融商業課〉平成6年/1994年3号)〔[ハ]のみ〕
- ポケミス街で拾ったもの(平成10年/1998年10月15日・早川書房刊『ハヤカワ・ミステリ総解説目録1953年―1998年』→『ミステリマガジン』平成15年/2003年5月号)〔[ハ]のみ〕
- 青い鳥で平和を灰に(『歴史群像』別冊『アルゴ』平成12年/2000年7月盛夏号)〔[ハ]のみ〕
- 志ん生の落語(『別冊文藝春秋』平成10年/1998年春号)〔[ハ]のみ〕
- 蒐める(『図書』平成14年/2002年5月号→平成15年/2003年12月19日・岩波書店刊『動詞的人生』)〔[ハ]のみ〕
- 十才年下の大先輩(『ミステリマガジン』平成17年/2005年1月号)〔[ハ]のみ〕
- サインおよびサイン会のこと(『小説新潮』平成17年/2005年1月号)〔[ハ]のみ〕
- 〈未発表初期短篇〉〔[単]→[ハ]「文庫・単行本未収録短篇」〕
- 番号が間違っている(昭和63年/1988年初頭執筆・未発表)
- 監視される女(『ミステリマガジン』平成7年/1995年11月臨時増刊号)〔[ハ]のみ〕
- 小説以外の沢崎シリーズ〔[単]→[ハ]〕
- ジャズを愉しむ(『道』平成8年/1996年7月夏号、10月秋号、平成9年/1997年1月冬号、4月春号連載)〔[ミ]のみ〕
- 同級生おじさん対談(中村哲)(『毎日新聞』平成17年/2005年1月6日、7日)〔[ミ]のみ〕
- レイモンド・チャンドラー頌〔[ハ]のみ〕
- レイモンド・チャンドラー(『朝日新聞』平成8年/1996年12月20日〈20世紀の古典〉)
- 私の好きなミステリ・シリーズ(九州ミステリ・クラブ『会報』No.0 平成6年/1994年4月2日)
- 『長いお別れ』の魅力(平成12年/2000年10月20日・早川書房/ハヤカワ文庫『海外ミステリ・ベスト100』)
- 三六〇冊のポケット・ミステリ(平成10年/1998年10月15日・早川書房刊『ハヤカワ・ミステリ総解説目録1953年―1998年』)
- 本棚に納まっていない本(平成12年/2000年9月『エンターテインメント新世紀』〈ハヤカワ文庫創刊30周年フェア解説目録〉)
- シナリオ『深夜の告白』のこと(『本の窓』平成12年/2000年9・10月合併号)
- ハードボイルド対談(船戸与一)(『エスクァイア日本版』平成7年/1995年9月号)〔[ハ]のみ〕
- 初出一覧〔[単]のみ〕
- 索引〔[単]のみ〕
- 編集ノート(編集部S)〔[ミ]のみ〕
- 編集ノート(編集部S)〔[ハ]のみ〕