『松柏』掲載 塩野周策「父の長襦袢」「年の瀬」
『松柏』は昭和52年/1977年に創刊された同人誌。主宰は大浜東窓(大濱侃)で、主に中高年を同人とする、小説・随筆誌である。
同人のなかには、大月常靖など、過去に雑誌編集者だった人物も含まれていて、大衆読物誌周辺のエピソードもチラチラ書かれている。大衆文芸研究者にとっても大変興味ぶかい同人誌だと思う。
第11回(昭和15年/1940年上半期)直木賞を受賞した河内仙介の息子、塩野周策も、同誌にひんぱんにエッセイを寄せていた。初登場は第83号(平成3年/1991年9月)。定年退職後、新潮文庫の社外校正をしながら、家族のこと、社会のこと、自らの生き方のことなどを綴っている。
そのなかで、父親河内仙介(本名・塩野房次郎)についてもふんだんに触れている。
『松柏』に掲載された塩野周策エッセイ一覧
- 第83号(平成3年/1991年9月)「紅生姜の天ぷら」
- 第84号(平成3年/1991年11月)「名付親になれずの記」
- 第85号(平成4年/1992年1月)「父の長襦袢」
- 第86号(平成4年/1992年3月)「暴酒を少しかげんして」
- 第89号(平成4年/1992年9月)「妻の自転車事故」
- 第90号(平成4年/1992年11月)「煩悩があるから書ける」
- 第91号(平成5年/1993年1月)「カラスの勝手でしょ」
- 第92号(平成5年/1993年3月)「酒場の一齣」
- 第95号(平成5年/1993年9月)「「未曾有の危機」とは…」
- 第98号(平成6年/1994年3月)「原稿用紙と遊ぶ」
- 第99号(平成6年/1994年5月)「年上のかみさん」
- 第103号(平成7年/1995年4月)「鍛冶屋の娘」
- 第107号(平成8年/1996年4月)「年の瀬」
- 第108号(平成8年/1996年7月)「古稀の贈り物」
そのうち、父の思い出を二か所ばかり引用する。まずは「父の長襦袢」より。
「物書きだった父の隆盛期には、滴るような濃紺の色鮮やかな久留米絣や、渋い大島紬を好み、颯爽としてなにくれの会合へ出掛けて行ったが、そんな高価な着物は、敗戦直後の食糧難で、ぼくが新潟の高田在まで持参して米と物々交換してしまった。(引用者中略)
こうして父の晴着は米に化けて、粗末な木綿着と長襦袢に角帯だけが残った。木綿着などは当時の農家の人の普段着だったかして、魅力をそそらなかったらしく、物々交換の対価にはならなかったと記憶している。戦後数年間、何故か父はこれを着用しなかった。その頃の流行語だった“バスに乗り遅れ”て作家復帰が果たせなかった父は、よれよれのコールテンのズボンを穿き、極太毛糸のトックリセーターに、ちゃんちゃんこという判じ物みたいな扮装で座卓に向かい、コツコツと原稿用紙のマス目をうめていた。
やっと業界紙の連載の注文がきて、
「そろそろ芽が出てきよったなあ」
と顔を綻ばせる頃になって、この木綿着を着始めたが、二十八年の秋半ばに胃の変調を訴えるようになった。」
その河内は胃の手術をし、どうにか命をとりとめ、その経験を『朝日新聞』昭和29年/1954年2月10日に「生死の境」と題して発表。再起に向けての意欲を書いたが、その月、胃ガンで亡くなった。
もうひとつは、「年の瀬」から。
「父。仙蕉院釋介心。昭和二十九年二月二十一日没、五十六歳。臨終の前日、「お母ちゃん、ワイは畳の上で死ねるような人間やないねん……よう、こんなええ子二人、手放さずにいてくれたなァ……」と、ぼくと妹の幼児期、二年有年も愛人と爛れた愛欲行の最中、母に離婚を迫った頃のことを謝した。」
「愛人と爛れた愛欲行」とは、河内がいったんは作家になる夢破れて、大阪に帰郷していたあいだのことかと思われる。河内の遊び好きはとくにひどかったらしい。友人の北條秀司も、河内の遊びにつき合わされた話をいくつか書き残している。