安岡章太郎『歴史への感情旅行』所収「意欲の人」

 芥川賞委員が、受賞作の選出に異をとなえて辞任する。という事件が話題らしいので、永井龍男を紹介してみたい。

 永井はまず第75回(昭和51年/1976年上半期)に村上龍限りなく透明に近いブルー」への授賞を受けて、主催の日本文学振興会に辞任を申し出た。

 芥川賞が事前からジャーナリズムの喧騒に巻き込まれる風潮に、これ以上、関わりたくない、といった理由が伝えられている。

 しかし、そのときは慰留された。一年後の第77回(昭和52年/1977年上半期)。そのときにもまして池田満寿夫エーゲ海に捧ぐ」の芥川賞候補入りが、過熱した報道のもとにさらされるにいたって、選考会後にあらためて辞意を表明。この回かぎりで委員をおりた。

 その永井の選考態度を、同時期に委員を務めていた安岡章太郎が回想している。

『歴史への感情旅行』

著者 安岡章太郎、発行所 株式会社新潮社、発行日 平成7年/1995年11月30日
「意欲の人」(初出『文學界』平成2年/1990年12月号)

「もう二た昔近くも前になるが、私は芥川賞の選考会で永井龍男氏の右隣に坐らせられることになった。向い側の席には池島信平、その隣に吉行淳之介、またその隣が大岡昇平といった具合で、大岡、永井の両氏がちょうど真正面から向き合うかたちになっていた。ところが当時、この両氏は意見が合わず、しばしば作品の評価もくいちがう。そうなると両者、声を震わせての激論になるのだが、そんな際に永井氏の体内からは意欲が、一種の電気か磁力になって発散されるらしく、それが隣席の私の左の肩から腕へかけてビリビリと伝わって、最後には左半身がしびれたようになってしまった。」

 さすが、若い日、編集者だった頃から作家たちに恐れられていただけのことはある。

 ちなみに、このあと池島信平のボヤき(?)が続く。

「会がおわって、他の席に移るとき、池島氏から、「どうだね、委員の感想は」と訊かれたので、私は永井氏の電磁波の影響をうけたことを述べると、とたんに池島氏は、
「そうだろう」と感に堪えた声になり、「君なんかせいぜい二、三時間、隣に坐っただけで、半身しびれるというが、おれは満州文藝春秋で、その永井さんの下に二年間つかえたんだぜ、察してもくれよ……」
 と、大きな声で笑った。」

 永井は戦前の芥川賞選考会を肌で知っていた。戦後、変貌を遂げた同賞をとりまく環境には、とうてい付いていけなかったのかもしれない。