河内仙介「時計と賞金」(『別冊文藝春秋』30号昭和27年/1952年10月)

直木賞(と芥川賞)の受賞者は、しばしば、受賞時の回想や賞金の使い道などを、書かされてきた。「直木賞○周年記念」と銘打たれた文藝春秋の雑誌では、よく、その記事を見かける。

別冊文藝春秋』昭和27年/1952年10月発行の号は、30号記念号で、直木賞芥川賞一色だった。

別冊文藝春秋』30号(昭和27年/1952年10月)

特価百円、昭和27年/1952年10月20日印刷、昭和27年/1952年10月25日発行、編集人 田川博一、発行人 池島信平、発行所 文藝春秋新社
目次

なかで、今回は河内仙介の「時計と賞金」を引用する。

河内はまもなく昭和29年/1954年2月に亡くなるが、その後は「悲惨な直木賞作家」として語られることが多くなる。
そのときに出てくる話が「生活が苦しくて、直木賞の正賞である時計を質屋にもっていったら、裏に名前が彫ってあったため渋られた」「賞金は酒で飲みつぶしてしまった」など。

これを河内自身は、どう書いているか。

「一、記念品の時計は、十二年前の受賞当時と同じように、現在も小生の手許で秒を刻んでおります。が、白状しますと、終戦後のインフレで謂うところのタケノコ生活も底をつき背に腹はかえられず、とうとう涙を呑んで質屋へ典物として、千円ばかり借りたことがありました。ところが、戦前なら、流期は六ヶ月で、その時には通知してよこしたものですが、戦後は三ヶ月で通知をよこすような人情味もなくなっていましたので、うっかりしているうちに、期限も過ぎてしまったのです。青くなって金策をして質屋に駈けつけましたところ、「これが無疵のものでしたら、早速に処分していたのですが、何分にも、裏にゴタゴタ字が彫ってあるので、売れ残ったのです」
 それで流失の難をまぬがれたという質屋の番頭の言葉に、ほっと、胸を撫でおろしたこともありました。いや、まったく貧乏はしたくないものです。
 それ以来、どうも時間が少し狂うようですが、それにしても小生にとっては貴重な裏側の彫刻の文字も、質屋では疵物扱いにされたのですから、今更のように世はさまざまの感を深くしたような次第でした。
二、賞金は五百円でしたが、当時の金ですから、ずいぶん使い量がありました。いまでも、はっきりおぼえていますのは、十五ヶ月たまっていた家賃(一ヶ月十五円)をきれいに支払った時家主のおやじが手の裏を返したように、「あなたはどこか見込みのある方だと思っていましたので、あまりきつい催促もしないでおったのですが……」
 と、見え透いたお世辞をいわれたことでした。残った金で、久しぶりに展墓のため大阪へ帰ったりしました。」

 没後おおやけにされた噂話とは、ずいぶん様相が違うことだ。