日本社版『小指』「序」堤千代

直木賞作家の堤千代の没年月日は、昭和30年/1955年11月10日。すでに著作権は切れている。

戦後まもなく出版された作品集『小指』に、堤千代は「序」を寄せている。

オール讀物』に投稿するまでの経緯などはおおむね、ほかの随筆や自伝小説と同じだが、全文ここに引用しておく。

『小指』代表名作読物選3

著者 堤千代、発行所 日本社、昭和23年/1948年1月10日発行
目次

  • 小指
  • わかれ
  • 和解
  • 賢ちゃん
  • 黒髪の心
  • 母娘人形

「序

 小指は、全く、本当の私の処女作でございます。
 生れつきの心臓弁膜症の私は、ヨチヨチ歩きの時分から、二三歩歩くと蹲み、捉り立ちの障子を、次の一枚へ移る迄に一度蹲むと云ふ風であつたさうで、学齢に達しましても、小学へ上る事が出来ませんでした。毎年、区役所に届ける為に、診書断(ママ)を書いて頂くのに、「あゝ、今年も学校に上れないのか」と、子供心にも悲しく、何日もお医者様の御門を出るのでございました。その中に、届けも要らなくなり、自分も何日か、学校の方は諦めて、自宅で、ぼつぼつと、読本の拾ひ読みを始めましたが、遊びに来て呉れる近所の子供とも、学校の遠足や何か話を聞くのがつらいので、ツイ自分から疏くもなりますし、独ッぽち、毎日々々本ばかり読み暮して、本の虫になつて了ひました。漱石先生、一葉女史、弓張月、等を卒業しましたのは、十二三の時でございませうか、月日が経つ中、姉達は片付きます。妹にも、そろそろ縁談がある頃が参りまして、床の中に日を送つてゐる私にも、将来の事を思ふ様な、幼い日とは又違つた愁心の時がやつて参ります。
「さうだ。小説を書いて見よう」と、思ひついたのは、昭和十五年の夏でございました。その以前にも、「赤い鳥」と云ふ(御存知の方もおありかと存じます)童話雑誌に投書致しまして、故鈴木三重吉先生から、讃めて頂いたこともございまして、少しは、自信もございましたし、父母や妹が、避暑に行つての留守中、床の中で、毎日、少し宛ポツリポツリと筆を取り、とうとう原稿用紙四十枚に「小指」一篇を書き上げました。
 そこで、盲目滅法に、オール讀物に投書する事に決め、女中に頼むと、「お嬢さんが、雑誌社に何かお送りになつた」等と云はれるのが、極りが悪く、自分で投函することに致しました。
 忘れもしません、七月の夕方でございました。「一寸、御門の所まで行つて見るワ」と断つて、四銭切手を貼つた原稿入りの封筒を隠す様にして、そろそろと出懸けました。
 家の門から三間ばかり先のポストに投げ込むと、思はず、ほッとしました。自分の一生を托した深い運命の大きなかけらを投げ込んだ様な感じで目を上げると、夕空に、美しい水々とした満月が上つてゐた事を覚えて居ります。それから十数日後、オール讀物から、掲載の報が来、次に、花柳章太郎氏の新生新派で上演の報を受け、次に直木賞授与の報を受けました嬉しさは、今以つて、忘れることが出来ません。その小指以下数篇が、今度、新しく出版される様になりました事は、私に取つて、その時以来の、大きな喜びの一つでございます。

 昭和二十一年十二月
 千代」